キースは苦悩していた。殺風景な私室の作りつけのデスク上には、パソコンが一台置かれているばかりだった。キーボードを打ち、画面を見つめては、黒髪をかきむしり呻吟している、苦悩多き三十代。異例の出世を遂げたキースの双肩にかかる責務は、限りなく重かった。
「どうしたのだ、キース」
突然の男の声に、キースはパソコンの前からさっと立ち上がり、画面を隠した。室内のドアの前に、苦みばしった眼鏡の三十男が、癖になっている渋面をつくって立っていた。キースの、かつての先輩であり、今は同僚のグレイブだった。
「いつからそこにいた? ノックもせずに、部屋に入って来るな!」
「お忍びで来たのに、高らかにノックしろというのか?」
グレイブは立ったまま苦笑して答えた。
「安心しろ、今来たばかりだ、約束したろう? 18時28分58秒に部屋で会おうと言ったのは、誰だ?」
グレイブの口調は、どことなく甘かった。
「まだ57秒だった、だから答えなかった」
近寄るグレイブの胸の発する体温におののきながら、キースは、後ろ手でデスクの端をつかみ、上ずった声で応えた。
「違う、私がノックしたのは56秒だ。待ちきれなかったのだ」
グレイブは逸ったように、キースの肩に手をかけた。
「ああ、2秒あったなら、お前に見られることはなかったのに!」
キースは、苦悩の声をあげて、背をのけぞらせた。
「ど、どうしたキース!」
グレイブは、すかさずキースの上体を支えながらも、キースの大仰な身振りに動揺して問うた。
「グレイブには、見せたくなかった……私たちの仲もおしまいだ」
グレイブの支えのおかげで、かろうじてパソコンはキースにつぶされることなく守られた。
「お前には見せられない、あああ」
両手で顔を覆い取り乱すキースを、グレイブは支えながら心配そうに眺めた。キースの愁嘆がおさまった頃合を見計らって、
「大丈夫だ」
とグレイブは微笑んで言った。人を落ち着かせるような極めて温かい声音に、キースは思わずつられて、グレイブの顔を見上げた。するとグレイブが嬉しそうにほくそ笑んで続けた。
「私に見せられないものなど、ないだろう、キース」
グレイブの思い入れたっぷりな言葉に、キースは怒りと羞恥でものも言えなくなり、接近した相手の身体を再び邪険に押しやった。
「何を思い出して赤くなってるのか知らないが……」
グレイブは笑いながら、キースの動きをかわして、ひょいと脇から覗こうとした。
「見るな、見るんじゃない!」
キースはパソコンの画面に立ちはだかった。
「言われれば言われるほど見たくなるのが人情と言うものさ」
グレイブは今度は情け容赦なく、キースを押しのけて画面を見た。
「ふ、何だつまらない、アクセス解析か。どんな秘密情報かと期待したのに」
グレイブは、険のある表情を崩さないキースの顎をつかんで、半笑いした。
「重要なことだ!」
キースは腕を払い、デスクを叩いた。
「グレイブと私の関係に興味をもってくれる人が少ないのだ……」
キースはデスクに手を付いたまま、深刻な面持ちで言った。
「いいじゃないか、私とて、お前との仲を表ざたにする気はさらさらない。何だ? お前は、私と大手を振って表通りを歩きたいとでも思っているのか? ばかなやつだな」
グレイブは、キースの引き絞った唇を見て、あざ笑うように言った。
「グレイブが悪いのだ。私の名前で検索してきてくれる者はいる、だが、お前の名で来るものは、めったにいないのだ」
「ふん、知ったことか。私は原作にはいないのだからな。私という人間は、T女史作品に出てくるタイプの人間ではないのだよ。あははは」
「何だその態度は、ファンの方々に対して失礼ではないか?」
キースは、グレイブをきっと見返して咎めた。
「失敬。すまないが、私が原作にいないのは事実だ」
グレイブはどこか寂しそうに言った。グレイブの寂しさを感じて、キースも多少態度を軟化させて、静かに尋ねた。
「ならば、なぜ私に執拗に、関わろうとする?」
一瞬訪れた沈黙に、キースは、キーボードの縁の丸味をなでていた指先を止めた。視線を上げると、熱のこもったグレイブの濃茶の瞳がキースを見つめ返していた。キースは身構えた。グレイブは、半歩迫ってくると、キースの細腰を折れんばかりに抱きしめて言った。
「わかっているだろう、キース、お前を好きだからだよ」
キースは、グレイブの腕の力に、窒息しそうになってもがいた。
「どうだ、お前が好きだからという理由だけでは不満か? 私の愛だけでは不満だというのか? 読者からの、便りが欲しいだと? 己の画像を描いてくれる人が欲しいだと? 贅沢ものめ」
キースの片方の目から熱い涙が流れた。
「皆は、キスマツを求めている……」
「ふふふ、キース、泣いているのか、愛い奴。お前の喉を絞めてやりたくなるよ」
グレイブは、残忍な表情で、キースの喉笛に目を落とした。キースはカラカラになる喉を唾液で潤してから、投げ遣りな口調で言った。
「グレイブと私がからんだところで、誰も、喜んでくれはしない……」
「見られたいのか? キース、自分と私がからんでいるところを」
グレイブは、キースの憂いには頓着しない様子で、からかい気味に言った。
「それとも、マツカの名など持ち出して、私を煽ろうというつもりか?」
放心した様子のキースに業を煮やしたのか、グレイブは、つかんでいたキースの身体を、突き放した。キースは、よろめいてベッドに倒れた。
「倒れるほど貧弱なわけでも無い癖に。誘っているのか?」
グレイブは、上からもの言う態度で、近づいてきた。
「キースとマツカ、お似合いじゃないか。お前も気に入ってるんだろう? 私があてがってやった、マツカのことを」
グレイブは、横並びに並んでベッドの上に腰掛けた。
「でもお前は、私を忘れられない、そうだな? キース」
グレイブのねちっこい視線が、キースの首筋を這っていた。
「私は、マツカで満足している、マツカをもっと可愛がってやりたい……あっ」
グレイブが、キースの喉笛にかみついた。
「よせよ、痕がつく。人に見られる」
キースはグレイブの腕を強く握った。
「もっと、人に知られたいんだろう? グレイブとキースの間柄を。印をつけてやるよ」
「うう」
キースは快感にあらがおうと歯を食いしばった。
「心にもないセリフを言うからだ。マツカで満足しているだと? ならば、なぜ、私を求める?」
「求めてなど、いない」
キースは、グレイブから逃れるように、胸を反らせた。グレイブはつかんだ両手首に力を込めて言った。
「お前がマツカで満足するはずがない」
グレイブが、さげすむ口調で言い放ち、キースの両手首を、床に押し付けると、キースは、がっくりと背を床に下ろした。
「好きにしろ」
キースは、抵抗をやめ、冷めた口調でぽつりと言った。グレイブは、遮二無二キースの胸ぐらをつかんで言った。
「何を言う、キース。私が無理やり、お前を好きにしているような、誤解を招く言い方はやめてくれ」
「結局グレイブの思い通りじゃないか」
「ばかだな、キースが無抵抗で私がおもしろいと思うか?」
「抵抗して、お前を楽しませるつもりはない」
グレイブは、大きく息をついて、言った。
「キース、『マツカをもっと可愛がってやりたい』だと? さっき、言ってたがな、お前が、人を可愛がるなどできるはずがない。マツカは怯えてるじゃないか。笑止だ」
キースは、グレイブの目を真っ直ぐ見て言った。
「グレイブも、私を苦しませて喜んでいるじゃないか」
「確かに、私がいるせいで、キス×マツでない、とお前が苦しむのは気の毒だ。でも、お前の瞳が私に訴えかける言葉を、私は無視できない。お前は永遠に口にしないであろう言葉を、私はいつもお前の瞳に見ている。私は、お前のように貪欲ではない。足ることを知っている。だから、許してやろう、お前が私を見つめるだけであっても」
グレイブは、キースに寄り添い、優しくキースの頭を抱いた。グレイブはキースの耳元に呪文の言葉を吹き込んだ。
「お前の心の空白を埋めるのは私だ」
- 2008/04/06(日) 18:28:58|
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